「ともんけんウィークリー」に寄稿しました

6日も空いてしまった。

「ともんけんウィークリー」に久しぶりに寄稿いたしました。

「図書館の「意味」をめぐる個人的な雑感」
http://tomonken-weekly.seesaa.net/

 などと言う訳のわからない雑文を書いてしまって、こともあろうに
そのまま載せて頂きました。
 課題が雑然と挙げられっぱなしの、放ったらかしの、まさに雑感です。
 このところ書いたものの中でも、情けないぐらいまとまっていない。
それはそのまま自身の「状況」を示している訳で、これは現実として
受け止めようと、これ以上下記進められなかった自身へ反省も込めて
掲載頂きました。

図書館と観光

「みんなの図書館」への原稿がなかなか捗らない。7月初旬にあった図問研大会の鼎談を
報告がわりにまとめてつつ、自論を展開したいと思っている。

 「観光」という営みのトレンドが、「着地型観光」といわれるように変わって来ている。
そのようなアプローチでは、図書館が観光資源としてあり得るのか、などという問いは
あまり意味をなさない。

 別に資源になうがなるまいが、観光という非日常的営みが、行動者の余暇として、また
学習として、その人をエンパワーメントできればいい。従来の「お客様・発散型」の旅だけ
が、リフレッシュのネタではない。

 人間として、仕事をしているだけでは得られない人間とのふれ合いによる気づきや、
物言わぬ自然との対峙による説明不可な感動もあるだろう。

 そうした、いわゆる観光地ではない農家民泊のような、その土地自体を楽しむ、
人とのふれあいや文化に癒され学ぶというとき、ガイドブックにはならない郷土の情報を
誰が旅行者に提供するのか、というところが、ニッチサービスとして浮かび上がる。

 だがしかし、旅行者への情報提供は副産物に過ぎない。実は、地域の人々に、自分たちの
暮らしそのものが、農や森林の営みそのものが、都市の人々にとっては得難い観光資源なの
だとということを、そして、その土地にしかない、伝説や文化、連綿と受け継がれてきた
生活文化が「憧れ」として存在する。これをしっかりと活字や映像、あるいは習慣として
残ししていく、そのような文化的な営みにこそ、図書館という情報収集と保存、そして提供
に責任を持つ機関がなすべき重要な仕事があるのだ。
 そのことによって、その地域文化はより可視化され、住民によって継続をしていこう
とするインセンティブにもなり得る。
 そうした営みの集積としての地域資料を、訪れようとする観光客が、あるいは訪れた時に
利用すればいい。

 そのようなことを、鼎談の報告とともに記したい。

放浪猫、「子クロちゃん」の宿替え


今日は写真を入れてみようと思い立ち、拾らわれ猫「子クロちゃん」のことを書いてみることに。
ある晩秋の夕方、マンションのエントランスでドアロックを開錠中、足元に違和感を感じ、
ふと見ると、子クロちゃんが私の足元を八の字(∞)にくるくる回りながら、今にも倒れそうな
弱々しい声を搾り出して「ごはん…ごはん、ください」と、みゃぁみゃぁ鳴いていた。
 すぐに自宅に連れて帰り、猫の餌になりそうなものをと冷蔵庫を見回し、明石出身の学芸員
O川さんから頂いた「いかなごくぎ煮」を大さじ一杯小皿に入れて差し出すと、死に物狂いで
食べ始めた。食べ終わると「もうちょっと…」と懇願されるので、要求されるままに5さじ分
食べさせた。その後、子クロちゃんはそのくぎ煮を大量に嘔吐することとなる。硬すぎた、
食べ過ぎた、辛すぎた?
で、マンションでは飼えないので、ネコ好きの嫁の実家に貰われた。実家では「クロ」という
ふてぶてしい黒猫を溺愛していたが、ある日猫嫌いな人が盛った毒餌に当たって亡くなってし
まった直後だった。
 で、先代のクロより小さいということで「子クロちゃん」と名付けられたその猫も、数年した
ある日、どこかに行ってしまった。
 あの晩秋の夕方、美味しいもの求めてわが家に来たように、またどこかより美味しいものを
食べさせてくれるいいところへ宿替したのだろうか

「静岡割り」は怖い

「タマシイ塾」という任意団体による公共図書館員の研修プログラムの企画運営委員会に参加。
月曜日に静岡に一泊。翌日に会議が入らなければ休日を楽しむはずだったが・・・。
 夜、飲み会で「静岡割り」を飲んだ。焼酎の緑茶割りだが、あっさりさっぱりで、お茶の
ほどよい渋みにアルコール感知度が奪われるので、グイグイいってしまう。

 会議は重要なテーマだったが、決定事項を聞いておしまいという流れだった。
その後、「萬膳」の絶品のオムライス(580円)を食べ、妻の行きつけの美容院に初めて行く。
シャンプーが気持よかった。マッサージも…。何より担当の唯さんがチャーミングで思わず
次回の予約を入れてしまった。

 そして某図書館研究団体から発行される雑誌特集号の書籍化用の著者索引作成作業をする。
こうした地味な作業を実際してみて、本づくりの大変さを実感するのもいいものだ。
 あっ、索引の自動作成プログラムなんてのも、あるんでしょうね、きっと。

図書館の情報提供とリアリティ

昨日、市長と図書館経営サイドとの意見交換会の席を設けて頂いた。
いろいろと情報提供事例をアピールするのだが、市長はいちいち
頷きつつも、表情はさえなかった。
 ちなみに市長は図書館に非常に理解があり、自身もハードユーザー
を自認する。
 「情報提供の先にある、対象の到達点、というところを見届けてるかな」
という一言。
 一応、我々も単純な情報提供だけでなく、トレンドや地域の課題解決
に向けての情報提供と、当事者のネットワークをコーディネートする
ところまでを意識したコミットをしている自負があるので、そうした
アピールをしていたのだが・・・。
 到達形までを見届けて、図書館の情報サービスのリアリティー
ある、と。これは刺激的だった。
 「ムチャ振り」という思いもありつつ、そこまで、図書館に期待
しているのかと。
 同席した各館の館長代理としてのチーフの誰ひとりとして「それは
各所管課の仕事では?」という二の句を継がなかった。
 「図書館にはもっと外に出ていってほしい」と市長。
「そうか…」図書館に、リアルな産業支援とか、政策活性化のための
ステイクホルダー調整、施策パイロットを期待しているのか、と。

 ハードルが高すぎるけど。
早速翌日、あるテーマに向けて、某地域のキーパーソンに電話してみた。

クリエイティブ・コモンズ

連日「ブックビジネス2.0」からのコメントだ。
というぐらい、刺激的な一冊。アプローチの多様さ、また、
現状認識や将来展望の予測も、多様で、無理に整えられて
いないところが、またいい。

 さて、著作権の主旨と、創造的な活動のための著作物
利用というトレイドオフについては、その法の性格や
背景(条約国間調整)にかかわって難しいということは
承知をしていた。
 そこで、クリエイティブ・コモンズという知恵。
逆転の発想だが、保護対象を狭めたいと欲する側から
ではなく、表現者もまた、情報取得要求者であるという
アプローチから、著作者側からの条件付きコピーライト
フリー宣言という手法があったのでしたね。

 野口祐子さんのページは、p143からです。

「教会としての物理的図書館」by橋本大也氏

『ブックビジネス2.0−ウェブ時代の新しい本の生態系』
    (実業之日本社、2010年、1995円)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4408108537/arg-22/

 の橋本大也氏のセクションに、図書館にまつわるとてもいい
コメントがあった。
 帰国子女だった氏は、学校になじめず高校をドロップアウト
プチ家出の逃避先が図書館だったという。
 以下は、少し長いが引用させて頂く。


  家出の逃避先として入った図書館で、私は大検の存在を知りました。
 学校をやめても自分の未来が開かれていることを図書館で知ったのです。
 行き詰まった人生に新たな選択肢が見つかって明るい気持ちになりました。
  居場所として毎日使えたこともありがたかったです。万人を迎え入れて、
 静かに放っておいてくれる図書館の存在は、当時行き場のない私にとって
 どなんに大きかったことか、いまあらためて思います。
  (中略)私は公共性の意義とは、そうしたマイノリティの弱者を救済する
 ことだと思うのです。(中略)
  膨大な蔵書の質量や管理された静謐な空間を見せつけることで、子供たち
 に知の世界の奥行きや豊かさを感じさせる教育の場としても、図書館は価値
 があると思います。(中略)
  私が求めた公共図書館の機能は、欧米におけるキリスト教の教会の機能に
 似ているのかもしれません。図書館に神はいませんが、情報による救いと癒し
 の場として、地域コミュニティの場として、今後も図書館には頑張ってほしい
 なと考えます。p73-p75


 橋本さん、ありがとうございます。
近代公共図書館のあり方について、実にシンプルに、そして実際的に綴って
頂いた名文です。

 日本の公立図書館は、そうした理念を十分に理解して運営しているところばか
りでは、残念ながらないですね。
 とても謙虚に、真摯に、「貸出」につながる利用者には向き合っているけれど、
そのコミュニティにいる弱者、あるいは未だ見ぬ読者への働きかけとしての、
地域のニーズを汲み取った選書をしての図書館サービスは、まだまだ取り組まれ
ていない…。各地の公共図書館の書架、とりわけ一般成人書の主題の棚を見て、
その貧しさを思います。